裾野市立鈴木図書館の成り立ち

1965(昭和40)年7月15日、「裾野市立鈴木図書館」の前身「裾野町鈴木育英図書館」は、当地出身の発明家、鈴木忠治郎による寄付をもとに、婦人会や出版社、たくさんの町民の協力により、約6000冊の蔵書を集め開館しました。

1990(平成2)年12月10日、「財団法人裾野町鈴木育英図書館」の解散に伴う寄附の申し込みが裾野市にされ、裾野市はこれを受け、翌1991年4月1日、「裾野市立鈴木図書館」として再スタートしました。

1994(平成6)年7月20日、新図書館の完成により現在の地に移転、現在に至ります。

【鈴木忠治郎(すずきちゅうじろう)】

1887(明治20)年~1964(昭和39)年。駿東郡小泉村(現裾野市佐野)に生まれる。生家は雑穀生糸を営む商家であった。
幼年時代は座敷の一隅で、茶壷をひねっては考え、考えてはもてあそんでいたという。
小学校の頃から算術が得意で、卒業の際には優等生に選ばれた。
学校を卒業すると、家業に従事し、父の下で商売を学んでいた。
草履をはき、額に汗をにじませ、山道を重い荷車を引きながら働く姿があった。

1905(明治38)年、18歳の頃、独立し、生糸繭の売買業を始めた。
生来の勤勉精励な性格もあって、商売も順調に滑り出し、沼津に店を持つことができるようになっていった。
そんなおり、胃腸疾患、風邪から肺・胸の病を発症し、闘病生活を余儀なく強いられた。
さらに、1913年(大正2)年3月の沼津の大火により店はもちろん、穀物などの商品を保管してあった倉庫も消失してしまった。
しかし、このような窮状、病床にあっても旺盛な研究意欲と類いまれなる創造力より食糧問題に危惧していたことから発案した、改良精麦機の発明に成功し実用化することになった。
闘病生活のなか、麦飯を健康回復のために食べていたものの、味の点でもの足りなさを感じていたのが、この動機であった。
そして、健康も取り戻し、静岡市に進出して精麦機の販売業を始めた。
精麦機の発明は食糧問題解決の要因になると考え、自信を得た忠治郎は精麦加工の研究に没頭した。

1916(大正5)年には雑誌「麥」を創刊し、その後「食糧評論」と改題し、1925(大正14)年まで出版を続けた。
米騒動で揺れる社会状況の打開策をたびたび雑誌のなかで紹介した。
「我が国民主食糧の基幹を米の単一食より米麦の複食本位となし、以て米食偏重の因習を打破せしむ。」と世間に公表し、そのために麦食を米食に匹敵し得るまで風味を引き上げることができる精麦機の完成を目指して日夜研究に励んだ。

1927(昭和2)年に加熱式圧搾麦製造機を完成させた。
それまでの麦の加工方法は水圧搾によるものであったが、この方法では麦粒に多量の水分が含有している時間が長く、風味を落としている原因になっていた。
加熱式圧搾麦製造機は麦粒を短時間にお湯で洗浄し、不純物を除去した後脱水機にかけて水分をとり、加熱機に搬入した。
このようにそれまでの方法を一新し、風味、消化、保存に優れた麦の加工法を生み出した改良精麦機は全国の市場に行き渡ることになっていった。

1923(大正12)年9月、関東大震災が起こった際には、風雨の中、沼津から汽船で麦穀類を運び、献身的に食糧の供給を行った。
これを機に東京・自由が丘に居を構え、新型機械の発明に取り組む一方、米穀麦食、二毛作の奨励など全国的な食糧啓発運動をも展開した。
昭和に入ると不況は深刻さを極め、なかでも農村の窮乏、食糧不足の悲惨な状況が伝えられていた。
彼は、政府、社会へ麦飯奨励による米価調節、食糧自給策、将来の食糧問題の解決策を幾度となく、提言した。

1932(昭和7)年、鈴木糧食研究所を設立し、翌1933(昭和8)年、全国発明協会大賞を受賞し、名実ともに「発明家 鈴木忠治郎」を世間に知らしめた。

1950(昭和25)年、加圧式圧搾精麦機、木製プロペラ、高性能搾油機などの発明功労により、藍綬褒章を、1961(昭和36)年には、ジュースマシンの発明効果により紫綬褒章を授与された。
いずれも時代の先端をゆく画期的な発明ばかりであった。
彼の発明は着眼の秀逸さ、原理・理論の一貫性はもちろんのことだが、発明の特許が特許そのものだけにとどまらず、常に一般の人々に実用的に使用できる点を考えに入れたものであった。

1963(昭和38)年、病床にあったが、50年近くも離れていた郷里に思いを馳せ、自分自身の半生を振り返ったとき、教育の重要性を鑑み、経済的な理由で進学を断念する青少年がないようにと、教育・文化施設の充実を願って、郷土の育英事業に役立つよう約1億円(現在の10億円余)の私財を寄付することを決めた。
家族に相談したところ、妻えつ、娘芳子も快諾したという。
この資金をもとに財団法人鈴木育英図書館・奨学金制度が設立され、現在に至っている。
裾野町は忠治郎の篤志に応え、名誉市民条例を制定し、「名誉市民」の称号を贈った。
忠治郎の遺志は脈々と引き継がれ、奨学金を受給した生徒・学生数は200名を超え、幾多の有為な人材を輩出している。
また、鈴木育英図書館(現裾野市立鈴木図書館)は市民の来館で常に賑わい、読書の場として、また学習の場として幼児からお年寄りまで幅広い年齢層に利用され、市の文化センターとしての一翼を担っている。

1964(昭和39)年、発明に生涯を捧げた忠治郎は76歳で逝去、裾野町は町葬をもって別れを惜しんだ。

「父の頭の中にはいつも発明工夫のことがあり、どこに行くにもT定規を持ち歩いていました。」と娘の芳子氏は語っている。

「裾野市史第9巻 第2編 人物に見る裾野の歴史より」